背135cmのいたずら書き

背135cm,体重29kgの青い目の小人のいたずら書き

何の為に生きるのか、障がい者が感じる生きることの意味

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私の趣味はThe人間観察です(笑)

学生時代、体育の時間は全て見学で、みんなの動きを観察していました。

美術大学を卒業し、大きな会社にも勤めました、恋愛もしました、失敗もしました、笑いもしました、うんこもしています。

色んな経験を持つ人と話もしましたし、経験も共にしました。

だた、身体の都合上みんなと同じにできないことも存在しています。
その時は観察するか、想像で埋め合わせをしています。

自分の経験を誰かの経験と比べることはできないので、
私のそれが、どーのこーのということではありません。
自分にあることをただ生かすだけのことです。
そこに優劣はないのかもしれません。

私なりの視点でそこから感じたことを語ってみたいと思います、
本日は何の為に生きるのか、生きることの意味についてです。

何の為に生きるのか、生きることの意味は答えがあるようでない
なのに
答えを求めてしまう種類の問いですね。

答えはないという答え。
答えらしきものはそして一人一人違うもの。

答えを求めるのではなく、
その問いをわざわざする時の状況を考えてみました。

この問いをしていた時、私はひどく疲れていたし
私は生きている実感がありませんでした。

私は休息をして
私は身体を整えました。

それでもやはりこの問いは私にあります。

でも、問いは同じようでいて質は幾分変化したように思います。

かりに天職が見つかったとしても
その問いはもしかしたらまだあるかもしれません。

天職が生きることの意味ではないとも思うからです。
(でも、充実感があるかもしれません)
(でも、人は年を取り、いつまでも職が続けられるとは限りません)

多くの人が天職を得て、
それでお金を得ることができればそれが幸せだと思うかもしれません。

でも、考えてみてください。
天職が見つかる人はどれくらいいるでしょう。
天職の基準はなんでしょうか?お金を楽に得ることでしょうか?楽しいことでしょうか?

どんな仕事にも責任がともないます。
楽しい仕事が楽とは限りません。お金が稼げるとも限りません。

天職とは一体なんでしょうか。

私は休息をして
身体を整えました。

・今あるものを大事にすること。
・行き詰まっているのならまず今の場所でやり方を変えてみること。
(生命の危機があれば逃げることですが)
・目の前にあるものを丁寧に見て、行動すること。
・身体を労わること。
(身体の健康が精神を強くすることがあるからです)

何の為に生きるのか、生きることの意味を私は未だ問う時があります。

そして残念なことに、まだ答えは見つかっていません。

だた言えることは、行動している分、不安は薄くなりました。
持ち物は非常に少ないけれど、
身体と精神が喜んでいる為、生きる意味を無暗に問わなくなりました。

私の場合、死ぬ時に答えが分かるのかもしれません。

その時まで、身体を大事に、環境を大事に生きることなのかなと思ったりします。

そして、その問をするのが人間だけなのではとも考えます。
動物や植物はその問なしに命あるかぎり生を全うしています。
その潔い清々しさは、言葉がなくても、存在そのものでやわらかさをくれます。

何の為に生きるのか、生きることの意味を問うた時
それは、方向性を変える為の小さな印かもしれません。

それはただの印で、その問いを持ち続けることはあまり意味がないといえば
意味がないのかもしれません。

何の為に生きるのか、生きることの意味を問うた時
それは、方向性を変える為の小さな印なのかもしれません。